小生が幼なかった頃、物心つく頃まで、我が村にも蛍がいた。夏になると、毎夜裏庭で蛍狩りをして遊んだものである。家の裏の水路には、玉手山から流れ出た清流が注ぎ、タニシや”どぜう”がいくらでもとれた。我が家では、それを餌に鶏を飼っていた。
あのころは村中の至る所に蛍が生息し、夏に成れば蛍が顔を出すのは当たり前であり、蛍が夏の訪れを知らせる使いでもあった。冬になると、渡り鳥が飛来した。鳥音痴であった小生は”サギ”を”鶴”だと思いこんでいた。
高度成長とともに、いつの間にかサギは居なくなった。村から田畑が消えた訳ではなかった。春は近鉄電車や観光バスを連ねていちご狩りの人々が来るほど苺畑が広がっていたし、同じ耕地に秋には豊かに稲穂が実った。
周辺の山々には、河内ブドウやミカン、山桃、枇杷がたわわに実り、のどかな田園風景が広がっていた。しかし渡り鳥は来なくなっていたし、蛍はもう二度と小生の心をいやしてはくれなかった。
高度成長とともに、農薬の使用量が増え、自然が破壊されていったのであった。
そのころになると、子供達は野鳥を覚えるのに苦労をしなくなった。 雀、カラス、ドバト、それ以外の野鳥とは出会わないからである。
地滑りで禿山に成った玉手山からは野うさぎ、野ネズミ、のたぐいの小動物が消え、それらを糧とする鳶やノスリも死滅仕掛けていた。かろうじて残る安福寺の雑木林に昆虫とそれを糧にする少数の野鳥がひっそりと隠れ住んでいた。
誰ひとり、自然に関心を抱く者などいなかった。時はまさに高度成長まっただ中、野鳥やそれを取り巻く自然などどうでも良かった。
やがて、宅地化の波が押し寄せてきた。玉手山は麓から徐々に住宅に浸食されていった。高校生になっていた小生は、心の内では宅地化を歓迎していた。「近鉄不動産のおかげで都市ガスも来たし、通学路の玉手山には街路灯がついて早朝、深夜の通学も真っ暗で薄気味悪勝った通学路ではなくなったし。」
時がたち、気がついた頃には、家の周りから田畑は消えてしまっていた。住人が増え小学校ができ、中学校ができ、”玉手村”は村でなくなった。苺畑も消え、他のレジャー施設が隆盛を誇り始めたからか、玉手山遊園地に来園する人もほとんどいなくなった。目玉のイチゴ狩りが無くなり、これと言ったアトラクションもない玉手山遊園地は消えていく運命にあった。
社会人となり”立売堀のポンプ屋”に就職した小生は、神戸を担当することになった。
一期工事が終わった頃のポートアイランドではポート博が開催され、未完成のハーバーハイウェイの橋脚が立ち並ぶ様は、まるで”巨大栓抜き”のオンパレード 何ともユーモラスだったのを覚えている。港にはカモメだけが飛んでいた。そのころ、近畿一円から自然は消え失せていた。
27才になった小生は外資系のハイカラな名前の輸入商社に転職をした。
たまたま、当時国鉄の神戸鷹取工場に行く機会があった、路上に車を止め歩き出そうとしたその時、目の前に”セキレイ”が現れ、尾っぽを上下に急がしく動かしながら、道を歩いていた。動物園以外で生まれて初めて見た本物の野鳥にしばらく心奪われ立ち止まってしまった。新鮮な感動であった。
普段は道明寺から通勤していたので、まれにしか玉手山を”
越える”事はなかったが、山越えで野鳥のさえずりを耳にしたことはなかったように記憶している
40才をすぎて東京に転勤になった。はじめの数年は隣県埼玉の戸田市の町中に住んでいた。次に住んだのが青梅市であった。多摩川の河岸段丘に立っていた小生の安アパートは緑に囲まれていた。
引っ越しは軽バンで夜明け前から日暮れまで一人で何度も往復して荷物を運んだ。
引っ越し作業の続く日々、ある夜荷物運びに疲れた小生は戸田に戻らずに引っ越し先のアパートでそのまま寝込んでしまった。翌朝明け方4時半頃だったろうか、まだカーテンも掛かっていない窓に朝日が差し込んできた。
そろそろ起きなければと、うつろんでいると、”チチチチチ、、、、”とベランダに何かの気配を感じた。起きあがってそっと窓に近づいてみると”野鳥”がベランダにいた。鳥音痴の小生には何の鳥かは判らなかったが”雀”でないことだけは判った。
こんなに身近に野鳥を見たことは前途の神戸以来であった。それからというもの、それからというもの、毎朝”小鳥さん”がベランダにやって来て小生の目覚まし役を引き受けてくれた。
小生の安アパートの庭先には、紅梅、白梅の老木が対で立っていた。ある朝”ホーホケキョ”の鳴き声で目が覚めた。廊下に出てみると、紅梅に”ウグイス”がとまっていた。生まれて初めて聞いた本物のウグイスの鳴き声である。何か心が洗われたような気持ちになった。
このころ、小生は金には困っていたが、思いっきり暇でもあった。
毎日がウィークエンドであった。
そんな中、小生は市内いたる所にある雑木林を訪れ、青梅の豊かな”本物の緑”を満喫していた。周辺の”あきる野市”にも良く出かけてみた。水田には鴨やサギが群れ遊んでいた。
ある日、秋川の雑木林に入ってみたら、どこからとも無く”コツコツコツ、、、、”と言う音が聞こえてきた。はじめは何の音だか判らなかった。しばらくして”ケラ”だと判った。俗に言うキツツキである。キツツキが忙しげに木を突くその音だったのだ。何だか理由もなく嬉しかった。
そして数年後、小生は故郷である”玉手村”に家族4人で帰ってきた。
小生には、まだオムツのとれない”愛娘”がいる。彼女が生まれたとき、自然を愛する優しい人になって欲しいと思い”美里”と名付けた。
事情があって、帰郷したものの、自然豊かな”武蔵野”を引き払うのは、”親”として辛かった。東京砂漠ならぬ河内砂漠で、優しく思いやりのある人に育ってくれるだろうか…。
武蔵野ではマンションの周りにはサザンカの生け垣、又何処のお宅にも、梅や、コブシの庭木が植わっていた。垣根越しに道路にはみ出した枝にも文句など言う人はいない。それに比べ、我がふるさとでは、せっかく育った桜並木も、”毛虫が落ちてくる”だけの理由でバッサリ切られてしまう。この地には心のユトリや癒しより、銭、銭、銭、、、、の風土が染みついているのであろうか。
そんなある日、我が家の庭にあの”セキレイ”が姿を見せた。ご先祖様に願いが通じたのかもしれない。小生は嬉しくて、うっすらと目に涙を浮かべてしまった。
村の周辺からはすっかり田畑が消えてしまったが、おかげで農薬公害は去去った様だった。そして近鉄の地道な努力が実り、禿げ山だった玉手山には雑木林が復活し、小鳥のさえずりも聞こえはじめた。皮肉にも、宅地化のおかげで、自然が復活の兆しを見せ始めたのである。
武蔵野や横浜市の市民の森のようになるにはまだまだ時間と努力が必要であろう。しかし、とりあえず”小さな自然”が復活したのである。私たちが自然に関心を持ち、雑木林や、清流を蘇生する努力をすれば今世紀中には必ず豊かな自然が復活するはず…。
小生はそれを信じ娘のために庭に桜の木を植えることにした。




